ワインの豆知識:リオハのパイオニア:マヌエル・キンターノ

2023年5月25日

マヌエル・エステバン・キンターノはスペインワインの歴史において非常に重要な、しかし見過ごされがちな歴史的人物です。マヌエルは1756年にスペインのバスク地方ラバスティダで生まれ、ブドウ栽培に深く関わる家族の元で育ちました。1782年にカトリックの司祭となりましたが、家族が何世紀にもわたって行ってきたようにワイン造りも続けていました。

マヌエルはボルドーに2度行き、オー・ブリオン、ラフィット、ラトゥール、マルゴーなどの名門シャトーを訪れ、除梗、ソフトプレス、硫化、オーク熟成などのワイン醸造技術を学びました。ラバスティダに戻ったマヌエルと彼の兄弟はこのボルドーの技術を自分たちの畑に導入し、特に樽熟成に重点を置きました。この新しいスタイルの最初のヴィンテージはあまり良くなかったのですが、その後のヴィンテージはマドリード、ビルバオ、ビトリア、そして北部の港で認められるようになりました。ワインの改良に力を注いだ結果、マヌエルはバスコンガダ協会から銀メダルを獲得しました。

1790年、マヌエルは国王カルロス4世からキューバ、メキシコ、ベラクルスの顧客に10樽のワインを販売する許可を得て、好評を得たことで、アメリカ大陸へのさらなる事業展開が促されました。しかし、1801年にワイン抽選制度が導入され、マヌエルの革新的なアプローチが脅かされることになります。この条例によりこの地域のワイン価格が平準化され、ボルドースタイルのワインを生産することが経済的に不可能になってしまったのです。マヌエルは自分のワイン造りを必死に守りましたが、結果的に諦めるしかありませんでした。1808年にナポレオンがスペインに侵攻し、フランススタイルのワイン造りは嫌われるようになりました。フランスは敵だったのです。

マヌエルは1818年6月16日、62歳の若さでこの世を去り、時代を先取りした先見者としてその名を残しました。ワイン造りの技術を向上させ、ボルドースタイルをスペインに導入することに尽力したマヌエルは、スペインに大きな影響を及ぼしました。彼の革新的な技術は見直され、一時的に衰退もしましたが、最終的にリオハのワイン醸造業界の発展の基礎を築いたのです。

著者紹介

Ettore Donadeo(エットレ・ドナデオ)

Ettore Donadeo(エットレ・ドナデオ)

アンコナ、マルケ州、イタリア生まれイタリア育ち。使用言語はイタリア語・英語・フランス語・関西弁。イタリアの大学で日本語学科を専攻。大学時代に1年間日本に交換留学した際に日本文化に魅せられ、卒業後2008年に再来日。日本とイタリアをつなぐ仕事がしたいと思い、ワイン業界へ転身。WSET Level2からワインの勉強を始め2017年にDiplomaを取得。2017年までワイン専門の酒屋で経験を積み、その後キャプランワインアカデミーに入社。

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